新型コロナウイルスの世界的な感染が続く中で、ウクライナにロシアが攻め込み、厳しい戦争になっています。クリスチャンは、終わりの時代について、正しく見分ける備えが与えられていなければなりません。
テサロニケ人への手紙第一の4章16,17節には「携挙」について書かれています。「ラッパ」と「よみがえり」のことから、携挙は黙示録に書かれている患難時代の真ん中の3・5年目に成就すると見られます。
携挙は、マタイ24章42節以下と25章1節以降を見ると、クリスチャン全員がそれにあずかるのではないのです。25章の「油の用意」については、聖霊に満たされていなければならない、と見られます。しかし、求めれば聖霊の満たしは起こるのです。熱心に求めましょう。
賜物を用いた者とそうでない者のことも書かれています。ポイントは、神にある使命を全うしていくことです。しかし、イエス様が来られての新約時代は、これだけやったから携挙される、ということではないのです。では、これは、どのようなことでしょうか?
それは、「イエス様が来られるのが近いぞ!」と信仰的に受け止めるなら、それが「行動に出てくるはず」なのです。信仰で受け止めることにより、聖霊に満たされようとする、与えられた賜物を用いて神様に仕えていこうとする、清めを求めて生活における整えをしてゆく、そういう信仰的な対応に立つなら、マタイ24章42節以下と25章1節以降にあるような条件は。次々と成就してくるということです。
黙示録にもこれが出てきます。同3章10節には、フィラデルフィヤ教会に「わたしの忍耐について言ったことばを守ったから」とは、信仰の対応を取ったということです。「試練を感謝する」などです。すると、「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と、これは「患難時代の携挙」を意味します。フィラデルフィヤ教会では、すでに冠が与えられています(11節)。
終わりの時代の備えを、信仰的に受け止めることは非常に大事です。(完)
誰でも働かせられる信仰!【マルコ10章47節】
エリコの通りで物ごいをしていた盲人のバルテマイ。イエス様が通りかかった時、「イエス様!」と叫び始めました。イエス様のことは誰かから聞いていたのでしょう。周りの人々と同じように、聞いたのでしょう。しかし、バルテマイはイエス様への信仰を持ちました。そして行動へ出ました。
長血を患っていた女もイエス様のことを耳にしたのです。マルコ5章27節。ただ聞いただけなのですが、イエス様への信仰を持ち、イエス様の着物に触るという行動に出ました。ただ聞いただけなのですが、求めるという「信仰の行為」に出ました。
一方、荒野で滅ぼされたイスラエルの民は、聞いたみ言葉が「信仰によって結び付けられなかった」のです(へブル4:2)。その40年後に、カナン人の遊女ラハブが証言しています。ヨシュア2:9~。40年前にイスラエルの民が葦の海(紅海)を渡って来た時、ラハブやカナンの人々は震え慄いていたのです。イスラエルの神様が葦の海の水をからし民をわたらせ、エジプトの精鋭部隊は滅ぼされたことを聞いていたのです。遠く離れたカンナの地で、神がなさったことを聞いたラハブは信仰を持ちました。しかし、その奇跡を目の前に見て、直に体験したイスラエルの民は、その体験が信仰になりませんでした。
ただ聞いただけで信じる人は幸いです。イエス様が言われました「見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ20:29)
筆者の証しですが、37歳の時、マルコ10:50のみ言葉をメッセージで聞いて、癒しについて信仰を持ち、長年服用してきたリウマチの薬から離れることが出来ました。聞いたみ言葉に、信仰を働かせました。何度か祈って、少し時間はかかりましたが、結局、信仰の踏み出しをしたのです。すると、薬は不要になり、そのまま完全に癒されました。主の御名をほめたたえます。