「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」(コリント人への手紙13章4~8節)
P牧師は語られました。愛には3種類あります。男女の「エロス」の愛、一般的な「フィリア」の愛、そして神の愛の「アガペー」です。
この13章で言ってる愛は、ギリシャ語の語源から見ると アガペーの愛です。
アガペーの愛はどうして求めたらよいのでしょう
ガラテヤ5:22で言われているように、愛は御霊の実です。私たちが愛そうとする時は、どうしても、エロスの愛かフィリアの愛になってしまいます。
クリスチャン生活をやっていると「自分は完全な愛からは遠い」ということが分かってきます。アガペーの愛はどうして求めたらよいのでしょう。そのために神様がなしておられるのが、イエス様を信じる時に「聖霊様が住まわれる」ということです。
聖霊様が住まわれるには、「受け入れること」が必要です
「納得するだけ」では「内住する」までに至らないことがあります。
聖霊様の内住とは、私たちの内側にキリスト様が生きておられることです。そのキリストを通して、愛の実質が出てきて、御霊の実が出て来るのです。
その時は、「信仰の対応」を取らなくてはならないのです。
内側にいてくださる方が、愛で満たされた方であることを信じる
我々の努力によって愛を全うしようとしても、罪人ですからできないのです。
内側にいてくださる方が、愛で満たされた方であることを「信じる」のです。信じ従う中で、神の御業と恵みが現わされてくるということです。(完)
【聖書の言葉から】ヨセフの内側にはキリスト様が生きていた!
「ヨセフがエジプトへ連れていかれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。
主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることをすべて成功させてくださるのを見た。」(創世記39章1~3節)
父ヤコブの12人の息子たちの中で、11番目の息子のヨセフは、ヤコブの年寄子として、父に特別かわいがられたので、10人の兄たちから憎まれるようになった。そのような17歳の時にヨセフは、神によって夢を2度見せられ、ヨセフは兄たちよりも、父母よりも偉くなると神に語られた。
ヨセフはその夢を兄たちにそのまま話したので、兄たちはヨセフをますます憎み、殺そうとして、結局エジプトへ売り飛ばされたのです。
族長ヤコブの息子として何不自由のない家庭で育った17歳のヨセフが、カナンの地から当時の大国エジプトへ奴隷として売り飛ばされたのです。
しかし、ヨセフにとってのこの大きな試練には、神様のご計画がありました。しかし、ヨセフには夢以外には、それは全く分からないのです。
ヨセフにとっては、耐えられない試練のはずが…
実家から遠く離れた牧草地で、兄たちに囲まれ殺されそうになったヨセフ、見知らぬエジプトに奴隷として売られ、自由のない厳しい立場に置かれた。
兄たちの「ヨセフなんか殺せ!」という声も耳に残っているはずです。ヨセフは眠れなくなり、うつになってもおかしくないはずですが、創世記39章1~3節でのヨセフの様子は、まるで違うのです。
聖霊様がヨセフを特別に励ましたからでしょうか。確かにヨセフの内には聖霊様がおられました。しかし、それだけではなく、ヨセフはいつも信仰を働かせていたのでしょう。
神によって夢を2度見せられたことは、ヨセフは決して手放さず、「あれは本当だろうか」などとは疑わなかったのでしょう。小さな語りかけ、示しでも、確かに神から語られたことは決して手放さない、このことは祈り聞き従いの恵みです。ヨセフは兄たちの言葉よりも、神様からの示しや導きを大切にし、そこに立ちました。しかも、後には兄たちを赦し和解しているのです。
このことは、ヨセフがなしたのではなく、聖霊様がなさったことです!