「御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(テサロニケ人への手紙第一5章19~21節)
生ける神の働きの、ある部分が失われる!
P牧師は「御霊を消してはなりません。」とは、御霊の賜物の働きを無くしてはいけないということです、と話されました。御霊の賜物は預言、異言、いやし、奇跡、霊の見分け、知恵、知識など9つあります。その働きを止めると、生ける神の働きの恵みの、ある部分が失われてしまうことになります。
たとえば、P牧師のご家庭は、P牧師自身の20歳台での死にそうな病、ベニ君の生まれつきの脳障害、不思議さんは治らないウツ、でした。しかし、賜物の働きを知っていたので、そういう対応をとった時に癒されたのです。
この時、もし賜物の働きが無かったとするならば、これは起こらなかっただろうと考えられます。日本人は「メッセージ」や「解き明かし」には関心を持っても、「賜物の働き」はあまり信じていない人が多く、具体的に祈ったりしないのです。
遣わされた時、主の手はより強く働く!
これから(3月)インドに行きます。(海外宣教に)「遣わされた」ということを通して、主の手はより強く働くので、主の業の進展を見ることになります。
誰にでも業は起こるので、賜物に関して学び、対応の用意をしていただきたい。
賜物が有るのと無いのは大きな差となる!
(戦国時代)長篠の戦いで、最強の武田騎馬軍団を織田信長等が打ち破ったのは「鉄砲」を用いたからだ。武器の違いは大きい。賜物「預言」が武器でポイント。
それが本当に神から来たのか、「見分け」の大切さ!
賜物の働きでも、何の働きでも、それが本当に神から来たのか、「見分けの問題」というのが重要な意味合いがあります。見分けは自分がしなければなりません。「本当に主から来たかどうか」を、確認するのです。
「海外宣教」と預言で語られて、我々はそれを神から来たと受け取って対応したのです。そんなこと起こりはしないと、たくさんの人が言いました。
今度、9万人のインドの教会に行くということは普通のことではないのです。明らかに一つのことを示しています。この時に「見分け」は主の導きの上に乗っていたということです。
「どう見分けるか」が問題です。土台は聖書!
一つは、聖書的に見分けます。聖書に書いてあるかどうか、です。「預言」に関しては、非常にいい加減に話されています。「聖書的ではない」、「預言を求めるべきではない」とか言っている方がいらっしゃいます。それに対してP牧師は、「とんでもない」と言っているのは、それが聖書に書いてあることだからです。聖書でははっきり「求めよ」と書いてあります。
解釈を変えてしまう方がおられます!
P牧師には、良かったなあと思われることがあります。それは、P牧師は最初は歌人を目指しておられ、次に詩人、それから小説をやろうとされていたそうです。文章をいろいろやられていたのです。その中で、解釈上の問題を通して「プラスを意図的にマイナスにしてしまう方々」がいっぱいおられることに気がついたそうです。聖書を真実にとらえた時、それを土台として見分ける、これが一つ大きなポイントです。
賜物を用いて見分け、「主の御心は何か」を見る!
御霊の賜物の働きは9つあり、そのすべてを我々がすることができます。「賜物を用いて見分けていく」、これが重要な意味合いがあるのです。それを通して、「主の御心は何か」を見るのです。そして、それを行う時に、主が働き栄光を現わしてくださる、ということを覚えておいてください。
TLEAは40年を超えて、一つの区切りに来ています。リバイバルが起こり始めています。見分けつつ正しい歩みの中で進んでいってください。(完)
【聖書の言葉から<いつも喜んでいなさい!>Ⅰテサロニケ5章16~18節】
「いつも喜んでいなさい」は、否定的な思いを持たないということです。
しかし、ごく自然に否定的な思いがやって来ます。ですから意図的に「否定的な思い」を「感謝」や「賛美」に切り替えていく必要があります。
マーリン師が、ある時、突然「素晴らしいことが起きました!」と言われたそうです。何だと思ったら、チケットを無くしました!と言われたそうです。飛行機のでしょうか、それは大変ですね。もちろん、マーリン師はチケットがないと気がついたときは焦ったでしょう。そこで感謝に切り替えたのですね。「心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)とあります。主の御心は、どんな時も感謝です。すべてのことを感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:18)です。
私たちはごく自然に否定的な思いがやって来ますから、意図的に感謝に切り替えていく必要があります。
マーリン師のチケットはどうなったか聞いていませんが、きっと何とかなったのでしょう。私は角田市でのクリスマス会に仙台から行く時に、忘れ物をしてJRに乗り遅れて、慌てたことがあります。次の電車に乗り、開会に遅れることが確定的な時に、電車の中で何度も手を叩いて感謝をしました。すると、不思議なことに、丁度、開会に間に合ったのです。主を褒めたたえました!