
13.「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。『あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。』
14.すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。』そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。『わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。』
15.すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。』そこで、ヨシュアはそのようにした。」(ヨシュア記5章13~15節)
(1)スタートは「神の計画に従いたい」でした!
P牧師は41年前に、TLEAの第1回礼拝で語られました。詩篇105篇11節「…カナンの地を与える。」が与えられたが、それは、「どこかに導かれて教会を立てる」というのとはちょっと違う、と感じておられました。
神様が「何か業をなすために集めて下さった」、どのような計画かは分からないが、御心にかなわない体制を取らない限り、大きな業を見ると信じました。
色々な問題について、「神様に聞く」を基本的な考え方、理念としたのです。「神様に聞いて行う」、この姿勢は41年間、全く変わっていないのです。
(2)「ちょっと苦労するぞ」と!
イエス様の苦しみを負いなさい、とも語られたそうです。イエス様が苦しまれた原因は、パリサイ人やユダヤ教の人々や民衆からの「誤解」でした。イエス様が十字架に架かられたのも、「異端」として架かられたのでした。
異端とは、聖書の原則から外れたら異端なのですが、TLEAも誤解から批判を受け、異端と言われるかもしれません、と当時のP牧師は語っておられました。

(3)「祈り」の大切さ!
P牧師が41年前の礼拝で語られた中心のみ言葉は、ヨシュア記5:13~15でした。13節に、「彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を持って…」とあります。
ここでP牧師は、「目を上げて見ると」とは、ヨシュアがその時まで「平原にいて祈っていた」ことを示している、と言われました。
たとえばイザヤ書6章には、イザヤが神の顕現に触れたのは、聖所(神殿)とあるので、彼が祈っていたことを示しています。
P牧師は、「祈っていた時に何かが分かった」という聖書の箇所がたくさんあります、と語られました。何かが私たちの前に開かれる時、「祈り」ということが関係することが非常に多いのです。
この時、ヨシュアは祈っていたので、何かに気がついたのです。
(4)主は「私があなた方の仕事を助ける」のではない、と!
P牧師は言われました。ヨシュア記5:13で、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と言ったのは、「神様」を自分の仕事を手伝ってくれる人、助けを与えてくれる人と捉えているのです。
そうではなく、神の前に跪くことが必要なのです。「神があなたを助けるとか、助けない」ではなく、「あなたが私に従いなさい」と神様は言っておられるのです。それが、主の軍の将がヨシュアの前に抜き身の剣を持って、敵対する形で現れた理由です、とP牧師は言われました。
何か、サタンが邪魔しているように私たちは思う場合があるかもしれませんが、神が止めている場合があるのです。私たちは、そのことを知る必要があります。
(5)「神の働きの豊かさ」が現れるのです!
P牧師は言われました。15節で、主の軍の将はヨシュアに言いました。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」と。そして、「ヨシュアはそのようにした」とあります。
「何が始まったのか」というと、我々の意識とか知性、理解、力を超えた、神の働きの豊かさが始まりました。「主の弟子になりなさい」、という命令を私たち全員が与えられています。主の軍に従った人は、1万の軍で2万の敵に勝つ、つまり、力の余った問題に向っていく、それを神様が解決してくださるのです。
主の軍の将に我々が従った時、主の働きが一気に大きくなるのです。「あなたの立っている場所は聖なる所」、つまり、神の臨在の中にヨシュアは入ることができたのです。普通の人なら死ぬのです。「神に良しと認められた」これを私たちは知っておく必要がありました。
新しい形での神様の臨在が、今日のヨシュア記のみ言葉は、私たちの教会に対する神様のことばです。皆さん、聖なる臨在の中で、神様に従って、神様の素晴らしい働きを見ましょう。(完)