The Light of Eternal Agape 東フィラデルフィヤ教会
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週報巻頭言

黙示録セミナー①

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「テサロニケ人への手紙第一4章16、17節」(空中再臨)

新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、主の再臨に至る7年間を中心に書かれています。それについて、クリスチャンは携挙されて、その大きな困難の中には入らないという説が言われていますが、P牧師はそれは根拠がないと言われます。

「携挙」には3つの説があり、一番言われているのは患難前携挙で、他に患難中携挙と患難後携挙です。P牧師は昔は患難前携挙だったそうです。理由は皆がそう言っていたから。しかし、良く調べてみると、患難前携挙節は聖書の言葉による根拠がないのです。そして、患難中携挙については、根拠となる明確な聖書の記述があるのです。マーリン師も患難中携挙説を支持しておられます。

主の再臨には、空中再臨と地上再臨の2つがあります。Ⅰテサロニケ4:16、17では空中再臨のことが書かれています。その時に、主にある死者がよみがえり、生きた私たちは、肉の体から御霊の体に変えられ携挙されて主にお会いします。ポイントは16節の「ラッパ」です。黙示録10章7節には、第7のラッパが吹き鳴らされる時に「神の奥義」が成就するとあります。Ⅰコリント15章51節に「奥義」とあり、52、53節に「終わりのラッパ」と「御霊の体」のことが書かれています。黙示録10章7節の第7のラッパは最後のラッパです。マタイ24:31にもラッパがでてきますが、これは主の地上再臨で、この時に集められるのは「イスラエルの民」のことです。

以上が「患難中携挙」の聖書の根拠です。「患難前携挙節」では、患難時代は「裁き」の時代だから、クリスチャンは裁かれないので、そこにいるわけがない、という考えがあります。しかし、患難時代の前半3.5年は徹底した裁きではなく、イエス様を信じることができるように配慮した裁きです。その場合、クリスチャンは災害の中にいるのです。後半の大患難時代にはクリスチャンはいないのです。

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「問題の解決」は「信仰の対応」によるのです!

ヨハネの手紙第一5章4節から、P牧師は、クリスチャンの素晴らしさは、問題、困難における神の勝利が約束されていることです、と話されました。

この問題から解放されるのは不可能だ、と思わないでください。それは完全な間違いです。なぜ解決しないのか。Ⅰヨハネ5:4には「私たちの信仰」とあります。「信仰の対応」によるのです。キリストを知った素晴らしさは、普通ではありません。それは、信じる人の一部にではなく、「みな」とあります。信仰を用いると、一人残らず神の御業を見ます。

秘訣は「祈り」「聞き従う」「感謝する」です。これがポイントで、しつこくやるのです。クリスチャン人生は厳しいこともあります。どうしてか。さらに大きな神の栄光を見ることができるように、建て上げてくださるからです。

もうだめだ、何もない、という時に神の言葉に立つのです。そのとき、主は栄光を現わしてくださいます。

「こだわり」も受け入れ、喜ぶのが御心

義理の姉の娘が離婚して、母親の所に戻って来ました。母親は主人をもう無くされていたので、寂しさがあったから、このことは良かったのかも知れません。しかし、離婚も御心ではありません。この娘さんのためには、イエス様を信じる人になられるように、祈っているところです。

娘さんのご主人は厳しい人のようです。子供が自立すると、離婚する人もいるようです。長年の我慢が限界にくるのでしょうか。夫婦に一致が難しい、その原因のひとつに「こだわり」があります。「こだわり」はその人の個性でもあり、大切なものではありますが、一緒に暮らしている場合は、相手にとって辛いこともあります。「いちいち言わなくても~!」と言いたくなる時もあります。

しかし、聖書では「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)なのです。「こだわり」も喜ばなければならないのです。イエス様は私たちを愛してくださっておられますから、私たちにはそれが出来るのです。イエス様は、ゲッセマネで「過ぎ去らせてください」と言われた杯も、御心のままにと、受けられたのです。愛せるのです。

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