「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ人への手紙5章22、23節)
P牧師は御霊の実について、上記の御言葉から語られました。
自分の力で愛や平安に満たされることは、できない
私たちは救われると、ほとんどの人は、自分は罪から離れてキリストのようになると、そう考えます。この御霊の実に満たされてくると、そういうことを求めるのです。愛そうと思うし、喜ぼうと思うし、これらの御霊の実を持とうと思うのです。しかし、それができないということが分かって来るのです。
私の決心が弱いから、などと考えます。しかし、愛とか喜びを立て上げようとしても、出来ないということが分かって来るのです。ローマ7:10、15。
一生懸命努力して、自分の力で愛や平安を立て上げようとしても、できないのです。この点で、多くの人がつまずくのです、私にはとてもできないと。
実は、出来ないことがあたりまえなのです。キリストに似た者となれない、と思ったら正解です。自分の力で愛や平安に満たされることはできないのです。
罪人だということが分かるのです。小さいことにつまずいたり、悩んだりする者だと分かるのです。御霊の実が私たちの内側に育つのは不可能だと分かってきます。これは、マーリンさんや皆さんが言っておられます。
「御霊の実」とは「御霊の働きの実」のこと。「自分の実」ではない!
なぜ「愛しなさい」とか言うのでしょう? それは、聖書では「しかし、御霊の実は」と書いてありますが、これは「御霊の働きの実は」ということです。
昨日はイチゴが贈られてきましたので、大喜びでした。イチゴの実はイチゴの木からできるのです。ミカンからイチゴの実はできません。同じように、私たちから御霊の実はできないのです。
「御霊の力による実」なのです。つまり、御霊が私たちの内に働いて現わす実なのです。私たちの努力と力によって、あるいは、悔い改めによって作り上げた、というのではないのです。出来ないのです。
「御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5:25)それから、ガラテヤ5:16では「御霊によって歩みなさい。」と言っているのです。ですから、私たちは自分の力と意志力で御霊の実を宿らせることはできません。
私たちは徹底的な罪人
どうして出来ないのかというと、私たちは徹底的に罪人だからです。良いところが何もない。私たちからいくら努力しても、愛が出てこないのです。聖書は逆のことを言ってます。やってみなさい。出来ないことが分かりますよ、と。
御霊に導かれて進むことが大切
御霊の実ですから、自分の力で進むのでなく、御霊に導かれて進むのです。御霊に頼り、御霊に従うのです。つまり、神様の働きは、信仰を通して現れるのです。私たちが御霊の導きに従って歩むときに、神様の業と栄光が現わされてくるのです。自分の力ではなく、御霊に導かれて進みましょう!