「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。 」(ヨハネの手紙第一5章14、15節)
「御心のことは答えられる」のです!
この聖書には、御心にかなう祈りが答えられる、ということが書かれています。だから、「御心のことは答えられる」のです。このことを正確にとらえているか、いないかで大きな違いになります、とP牧師は言われました。
クリスチャンが「私は用いられるだろうか?」と思う誤り!
私は用いられるだろうか?、と思うクリスチャンが、日本のクリスチャンには多いのです。そのために一生懸命祈ったり、色々なことをしますが、それは誤りです。一番の問題は、「用いられるだろうか?」と思っていることです。
用いられないクリスチャンは1人もいない!
聖書では「御心にかなう祈りは答えられる」と言っているのです。だから、「答えられたとしなさい」と言ってるのです。では、「私が用いられること」は御心でしょうか。御心なんですよ。そうすると「私はもちいられるなあ」と分かるわけです。
生きておられる神は御心を行われますから、用いられない人(クリスチャン)は1人もいないのです。人生を終えて用いられなかった、という人が出てきた場合、一番の問題は「私は用いられるかなあ?」と思っていたことです。
現実的な主の御業が ~ 桃が来ました!
P牧師が、朝ご飯を食べる時、鉢に桃がいっぱいあったそうです。桃を食べたいと思っていたそうですが、こんなに沢山食べたいとは思っていなかったそうです。そうしたら、昼頃に、また桃が来たそうです。そして、夜にも桃が来たそうです。それで気づいたのです。P牧師は、2、3日前に桃が食べられるようにと祈ったことを。主は、生きて働いておられる方なのです。
「受けた」と信じる人と、「受けるかな?」と信じる人に差がある!
くりかえします。皆さんは用いられるのです! 日本人は謙遜が好き?でも、用いられるのです、本当に。
皆さんに力があったとしても、能力があったとしても、努力があったとしても、分からないのです。
でも、信じて御心に立つことを求めるなら、それが起こってきます。皆さんにおける主の大きな働きと力を見ていくということを、覚えておいてください。
色々な事柄が始まって、「受けたと捉える対応」が重要なポイント!
「受けたと捉える対応」が必要なのに、「求めている」から、逆にそれを逃している方々が非常に多いのです。
主は私たちに御心を成して下さったのです。「下さったと受け取れ」と書いてありますね。その具体的な働きが起こってきます。この時、「受けたと信じること」が重要なポイントであることを覚えておいてください。(完)
【聖書のみ言葉から】
「だから、あなたがたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカの福音書11章35節)
私たちは罪人ですが、救われるための罪人なのです。十字架の上で、イエス様を十字架につけた人たちのため、そして、私たち一人一人の罪のため、身代わりとなって死んでくださったイエス様、3日目に蘇られたイエス様がおられます。私たちの救いを完成された、このイエス様を信じて日々歩むのが私たちです。
イエス様を単純に信じて歩む私たちには、聖書のみ言葉を信仰で受け取り、信仰で従う歩みです。試練を感謝して、主に祈り聞き従いの歩みが、光の内を歩む歩みです。
心配になるようなことを言われることがあります。聖書の言葉は。すべてのことを感謝しなさい(Ⅰテサロニケ5:18)ですから、まず、このことも感謝します、と手を叩いて主をほめたたえます。また、必要な求めの祈りや、癒しの祈り、霊の縛りの祈りをします。主の助けが必ず現れます。主をほめたたえます。どんなところにも、イエス様の救いの光は輝いています。主をほめたたえます。