
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言をする。」(使徒の働き2章17、18節)
P牧師は、聖書で大切なのは、イエス様の十字架、復活、そしてペンテコステ、と語られました。特に御霊の賜物の働きが開かれた「ペンテコステの大切さ」を強調されました。今回は、筆者(蔵元)のまとめを語らせていただきます。
ペンテコステの前に、イエス様が弟子たちに言われたことは
(1)イエス様は弟子たちに「わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16:15)と問いかけた時、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました。イエス様はペテロの答えを喜ばれて「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」と言われました。
(2)「私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。…その方は、真理の御霊です」(ヨハネ14:16、17)
ペンテコステの時に、2つとも成就しました
弟子たちなどイエス様を信じる120名ほどの人たちが、集まって祈っていた時に、全員に聖霊が注がれ異言を語りだしました。(2)が成就したのです。それを聞いた人たちが集まって来た時に、立ち上がったのはペテロでした。ヨエルの預言を引用したメッセージをして、人々を悔い改めと救いに導きました。その日バプデスマを受けたのは3000人でした。こうして教会が建て上げられました。
ヨエルの預言で強調されている御霊の賜物「預言」!
教会のスタートで用いられた「ペテロのメッセージ」で、ヨエルの預言が語られているのは、ペンテコステの時からイエス様を信じるすべての人に聖霊が注がれて、御霊の賜物、その中でも預言が中心的に用いられていくことを現わしています。「息子や娘は預言をし」、「しもべにも、はしためにも」とあるからです。
そして、使徒20:19、20節の表現から、この終わりの時代(黙示録の時代に近づく時)にも、ペンテコステの時と同じように「預言などの御霊の賜物」が大いに用いられていくことが読み取れます。
この場合の預言の賜物は、旧約時代のとは異なり、働きは個人に現れますが、教会の管理の下での働きになります。また、旧約時代の預言者は間違えませんでしたが、(間違えると死ななければならない)、ペンテコステ以降の新約時代の預言は、「誤りも含む」という前提で、必ず「吟味をする」ことが必要です。

筆者の福音派での体験から
筆者は29歳の時、福音派の教会で洗礼を受けました。TLEAに導かれるまでに、いくつかの教会を転々としました。
それらの教会にいる時に、私自身が大きな癒しを体験したことが少なくとも2回はあり、今も主に感謝しています。1回目の体験は、その教会というよりは、その教会の長老で熱心な方の祈りによりました。2回目の体験は、癒しに熱心な福音派の教会で、教会でも熱心に祈って下さったのでした。主をほめたたえるとともに、祈って下さった方々にも感謝です。しかし、その他の教会では、癒しも熱心には祈っていませんでした。
また、預言などの働きには触れることはありませんでした。Ⅰコリント12章~14節に関しては、13章の「愛」については語られていますが、異言、預言の働きについては語られていませんでした。一方、外国から来られた宣教師の方でしたが、黙示録は読みません、とはっきり言われる方もおられました。そのような方はお1人だけでしたが、賜物の働き(癒し以外)や黙示録に触れたメッセージは聞くことはありませんでした。新旧約聖書は誤りなき神のことば、という捉え方も、はっきりしていない教会もありました。
私たちの教会は意識して「祈り聞き従い」を大切な土台としていることは、本当に素晴らしいことです。また、愛が大切ですが、それと共に、信仰を働かせること、をいつも語られていることは大きな力となっています。
40年の学び・訓練の時を経て、「占領の歩み」と語られていることは、誠に主の御体にふさわしいことと思います。
「オンライン会員」ということが教会で語られていたことが、コロナの時にその大切さを実感しました。「息子や娘は預言をし」、「しもべにも、はしためにも」とヨエルの預言にあるのは、御霊の賜物を用いていくことがどんなに大切かを、さらに深く知る時が来るのでしょう。(完)