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ヨハネの福音書

神様は、聖書を通して語ってくださる

  • east-phila
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聖書箇所

ヨハネの福音書:10章1節~4節

神の声を、聖書で聞くことができる

ヨハネの福音書10章3節で、「羊はその声を聞き分けます。」とあります。イエス様を自分の救い主と信じると、飼い主イエス様の羊となるので、イエス様の声を聞き分けられるというのです。

昨年の3月に突然肺炎になった時のことです。4月に大変忙しい日程を抱えていて、その準備のため忙しい時でした。パニックのようになりましたが、聖書のヨハネ5章19節「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。」が、私を救ってくれました。多くの人々を癒し、悪霊から解放し、たくさんのメッセージを語られたイエス様は、手当たり次第に御業をなしておられたのではなく、父なる神様のしなさいと言うことだけをしておられたのです。

この示しが、あれもこれもと忙しくしていた私を解放してくれて、実際的にも良い道が開かれ、助かったのです。たしかに、聖書のことばは神の声です。結婚の時や、リウマチの薬から離れることができた時、あるいは牧師への召命の確認が与えられた時など、人生のポイントの時に、聖書のみ言葉が私の思いを超えて導いて下さっています。

聖書を読んでも頭に入らない…?、大丈夫です

神様は私たち人間に、すでに語っておられるのです。それが聖書です。もちろん、神様はその都度、直接語り示して下さるでしょう。しかし、大切なことは聖書にすでにあるのです。だから聖書を毎日読むことは大切です。しかし、聖書を開いたが、頭に入らないということはあります。良くあることで、心配いりません。不思議と、試練に遭っている時ほど聖書は良くわかるものです。

マタイ15章27節に「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」ということばがあります。悪霊に取りつかれている娘の癒しを、イエス様に熱心に求めた母親のことばです。ここでは、パンはイエス様のお言葉のことです。彼女は「癒す」と言うイエス様のお言葉がほしかったのです。「パンくず」とは何でしょう。イエス様の小さな語りかけ、ということではないでしょうか。

私たちは、神様からはっきりとしたみ言葉や示し、導きがほしいのです。確かに聖書では、ヨナ書にあるように、神様の語りかけに背を向けて逃げようとしたヨナを、神様はヨナの首に縄を付けるようにして引き戻された、というケースもあります(ヨナ書1~2章)。しかし、イエス様の語りかけは、小さな語りかけの場合が多いのです。マタイ15章27節の女のように、神の前にへりくだって求める姿勢が大切です。小さな、かすかな語りかけでもいい、イエス様が言われたのなら、という信仰です。イエス様は女に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われ、娘は癒されました。

リウマチの薬がいらなくなった証し

17歳の時から20年以上服用していたリウマチの薬、飲まないと各関節が痛くなります。医師の処方で毎日服用していました。ある聖会で語られたメッセージで、マルコ10章50節「盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。」のみ言葉が語られていました。盲人は、大事な上着(乞食用の)を捨ててイエス様のところに行った信仰に、イエス様が応えられて目が見えるようになった、というのです。

はじめ聞いた時は、まさか自分がリウマチの薬を捨てるようになるとは思いませんでしたが、マルコ10章50節が何となく気になり、祈ってみたのです。すると、長年服用してきた薬を捨てるように示されていったのです。そして、ある日薬を捨ててやめてみたら、必ず痛くなるはずの関節が一度も痛まず、ついに今年で29年目となります。薬から離れた次の年には、結婚8年目で一人娘が与えられるという恵みにも預かりました。娘は今年28歳になります。

このマルコ10章50節の語りかけは、はじめはかすかな語りかけでした。しかし、何度も祈ってみるとはっきりと示され、語られたのです。医師の処方の薬を止めるということは、勝手にやってはいけないことです。特別に、神様の示しと受け取れたのでしたことです。確認の吟味は大切です。

神のことばを受け取るには、祈りによる求めが必要です

神様の導きを祈り求めて聖書を開くと、何らかの主からの語りかけがあるものです。しかし、自分の考えが占領していたり、自分の感情が支配していると、なかなか気づかないのです。また、はじめは「あれっ!」と思っても良くわからなくて、それを心に留めて置いて、時々思い返して祈っていると、「あ~、神様からの示しだ!!」とわかってくることがあります。その場合、さらに祈ると、「どうしてもみ言葉に従わなくてはならない。」と決心に導かれるのです。ですから、神のことばを受け取るには、祈りによる求めがどうしても必要なのです。

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