「イエスは彼らに言われた。『わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイの福音書4章19、20節)
献身を願っていたが、示しが来ない!
P牧師は、ご自分の「献身の体験」を話されなした。
P牧師は学生伝道で救われました。初めから教会には誰よりも熱心に出席し、熱心に奉仕をされたので、教会の青年会会長や役員に選ばれました。キャンパスクルセードの奉仕で、新井牧師に身近に教えを受ける特権も与えられ、献身者の条件と言われることはすべてクリアしておられました。奉仕や教会に行けなかったのは、病のためだけでした。
しかし、そんなP牧師に、献身のための神様からの「あなたを召す」という言葉が来なかったのです。
伝道者としてはふさわしくないと自覚! その時、言葉が来ました!
多くの人々に伝道して、受け入れる人も起こされていましたが、「本当の意味で届いていない」ことは感じていました。また、自分がどのような罪人かも分かってきました。伝道者になるのに自分はふさわしくない、そう自覚したのです。
不思議なことに、そう自覚した時に、P牧師に「人間をとる漁師にする」という言葉が来たのです。「落第しました!」という時に、伝道者に導かれたのです。
何もできない、ふさわしくない、それが「正解」なのです。
何もできない者を、どうして選んだのか!
何もできない者を選んだのは神ですから、神が責任をもって働かれるのです。そこから、ふさわしくない者を通して主は業を成す、と言われたのです。
霊的に悪い国の牧師が、リバイバルの国で奉仕してよいのか!
P牧師はルーマニアのリバイバルの時に奉仕されています。聖会場は人々が会場いっぱいに、身動きも難しいほどに集まっていました。通訳者は世界的な預言者イリエ・コロアマ師です。P牧師は、自分がこのような中で本当に奉仕してよいのかと思われましたが、主に聞くと「やりなさい」でした。やると業が起こるのです。
皆さん、よく主に聞いてください。これは大事な問題です。
こんなことがありました。迫害を通られた著名な器で、我々に好意的な方がいました。彼は我々のルーマニア伝道を賛成してくれていました。しかし、P牧師は英語ができないので通訳が2人立ちます。それを聞いたら彼は言いました。「やめなさい、ルーマニアの人はメッセージに3人立ったら聞かないから」と。
しかし、主に聞いたら「やりなさい」でした。それでP牧師はやりました。その時、業が起こったのです。終わった直後にその教会の牧師に「もう一回やってください」と言われました。人々に反応が非常に強く現れたのです。
主が言われるなら、絶対やることです!
人間的には、これはやらない方が良いかなと思う判断も起こりましたが、主に聞いて、主がやりなさいと言われるときには、絶対やらなければなりません。
これから働きが大きく広がって来ると思われます。もちろん私もメッセージしますが、皆さんもメッセージしたり証しをしたりする機会が多くなってきます。皆さん備えてください。今、動き出しています、とP牧師は言われました。(完)
【聖書のみ言葉から】
「というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。」(マルコの福音書6章50節)
これはインドのジョンウエスレー牧師が来られた時も話されたメッセージでの一つのみ言葉です。よく読むと、ここにもイエス様の深い愛が現れています。
弟子たちだけを、ガリラヤ湖の向こう岸に舟で行かせたイエス様です。弟子たちの舟は向かい風のため進まなくて、真夜中ずっとこぎあぐねていました。弟子たちには漁師も何人かいて良く分かっているはずのガリラヤ湖ですが、夜中こぎあぐねて、なんと早朝3時になっていました。
そこにイエス様が水の上を歩いて近づいて行かれたが、弟子たちはイエス様と分からずに幽霊だと恐れてしまいました。はじめイエスは通り過ぎる様子でしたが、恐れの極みに達していた弟子たちに「わたしだ」と話しかけられました。
私たちの弱さ、不信仰も、イエス様はすべてご覧になっておられます。私たちが弱さを十分自覚してから、イエス様は声をかけられます。「わたしだ。」と言われました。イエス様の弟子たちに対する愛、そして私たちに対する愛は、私たちを救うためご自身を十字架に架けるほどの完全な御愛です。
イエス様は、私たちの罪をすべてご存じの上で愛してくださっておられます。そのイエス様が、人となられて私たちと同じ立場になられた時には、いつも父なる神様を見上げておられました。このイエス様の姿勢を知って、私は大変焦っていた時に、焦りから解放されました。P牧師のように、いつもイエス様に聞くべきです。あわて恐れるよりも、イエス様に聞き従うことに集中していきましょう。