The Light of Eternal Agape 東フィラデルフィヤ教会
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週報巻頭言

信仰は「感情」ではなく「意志」です!

  • east-phila
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「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)

(1)十字架を信じて、罪を告白すると赦される!

P牧師は言われました。我々は「罪人」であり、その罪は神様の前に取り扱われるわけです。しかし、もし私たちが「十字架を信じて、自分の罪を告白する」ならば「赦される」と聖書に書いてあります。これは「罪を犯さなかったかのように、その罪を消してくださる」素晴らしい恵みなのです。

(2)罪を繰り返すから、救われていない?

ただ、多くの方々は、このみ言葉を見ても安心しません。それは、罪を赦してくださるかもしれないが、罪を繰り返すから、自分は救われていないのではないか、と思う方がいます。しかし、これは間違いです。

神様は、十字架を信じて罪を告白するならば罪を赦す、取り除くと言っておられます。それを信じることが大きなポイントです。「罪に打ち勝つようになること」は大事ですが、それが「赦し」、「救い」の条件ではないのです。信じることが大きなポイントです。

(3)信仰は意志です、感情ではありません!

信仰は「意志」の問題であり、「感情」ではないのです。「疑い」が来てもそして大丈夫かなと思っても、感情で信じるのではないのです。意志で信じるのです。

P牧師は、イエス様を信じた後に、つまずいたことがないのです。どうしてかというと、「信じることに意志を持ってした」からです。ご自身の内には、疑いもあったそうです。本当に救い主なのか、罪の赦しはあるのか、など。

これは、P牧師の感情が、そういうふうにP牧師に誘惑をかけたのです。しかし、P牧師は決心していたのです。「イエス様に立つ。聖書が言われるように、私の罪は十字架によって赦される、罪を告白する時に赦された」と。

意志を持って決心したとしても、疑いは何度も襲ってきます。しかし、P牧師は意志で決心したので、それは変わらないわけです。

その歩みをしている中で、「正に赦されている」ということが、分かり始めたのです。

罪の赦しというのは、私たちは罪人であり、決して正しくは無いのですが、しかし、イエス様の十字架を信じたので、信じた故に信仰の義を頂いたのです。

だから、私たちは「罪が赦されている」とともに、「義」なのです。どのくらい正しいのかというと、1回も罪を犯さなかった人の「正しさ」なのです。これはイエスキリストの正しさなのです。1回も罪を犯さなかった人の祝福を受ける正しさです。

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(4)信じられない方、「聖書の言葉」に意志を持って立ってください!

疑いは何度も襲ってくるでしょうが、聖書の言葉に信仰の対応をする時に、その言葉が分かってきます。「意志を持って聖書の言葉に立つ」とき、その言葉が分かって来るのです。

私たちはすべての罪に打ち勝つことはできませんが、それは聖霊の業であり、聖霊を信じ、「聖霊に従う」ということが一つ大きなポイントです。

P牧師が神学生の頃、惑われたことがあったのです。P牧師自身が「霊的に調子が悪いな」と思っていた時がありました。その時丁度、女子寮の方から、体の調子が悪いので祈ってほしい、と要請がありました。P牧師は、自分も霊的に調子が悪いので、こんな時に祈っても「神様は働いてくださらないだろう」と考えました。しかし、その時は断りづらい状況があり、祈るだけ祈ってあげたそうです。すると、その方は「治った!」と言われたそうです。P牧師は「治るわけがない」と思っていたのです。それは、自分は罪人だと、P牧師は思っていたからです。

P牧師は、その当時、色々な働きを見る中で色々な業が起こる時に、自分は罪人なのに、何でこんな業が起こるのだろう、と思ったのです。

しかしP牧師は、今は分かっているそうです。P牧師は十字架を信じているので、赦されているのです。十字架を信じているので、一度も罪を犯したことのない人が受ける祝福が与えられたのです。皆様も十字架を信じているので一緒です。

皆様のすべての罪は、無いものとされています。皆様が十字架を信じているので「義」「正しい」とされ、天あるすべての祝福を持って、神は祝福してくださっているのです。

私たちは「信仰の歩み」、このことを通して、主の祝福と恵みを見てゆくということを覚えておいてください。(完)

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